プラモデルの歴史

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プラモデルの誕生と普及

世界で最初に発売されたプラモデルは、フロッグのブランドで動力付きの木製模型飛行機を販売していたイギリスのラインズブラザーズ社 (Lines Brothers Ltd.) が、1936年に発売したフロッグ・ペンギンシリーズ[1]である。 当時の新素材であったプラスチックで模型を作る技術は、イギリス軍が教育に使用する航空機や軍用車両等の識別用モデルをプラスチックで作る技術を応用したものである。 フロッグ・ペンギンシリーズは1/72に統一された航空機のキットで、第二次世界大戦により中断されるまでに英国機を中心に30点ほどが発売された。

第二次世界大戦中にはアメリカ国内でもプラスチック製の識別用モデルは多数作成され、大戦が終結すると、ホーク、レンウォール等の複数のメーカーがアメリカでもプラモデルの製造を始めた。 1950年代に入ると、オーロラ、リンドバーグ、レベル、モノグラム等のさらに多くのアメリカのメーカーがプラモデルの生産を始め、ヨーロッパでもイギリスのエアフィックスやフランスのエレール等が活動を開始し、プラモデルは急速に普及していった。

フロッグやエアフィックスといったイギリスのメーカーの航空機キットが最初から1/72で統一されていたのに対し、アメリカのメーカーの初期のキッ トは箱のサイズに合わせた箱スケールのものが多かったが、1950年代後半以降スケールの統一の動きが進み、多くのメーカーが1/72とともに1/48 (1/4インチスケール) を航空機の統一スケールとして採用し、むしろ1/48の方をメインとした。 また、初期のプラモデルメーカーの多くが木製模型飛行機のメーカーであったこともあり、初期のプラモデルは航空機が中心であったが、1950年代半ば以 降、艦船、戦車、自動車等のモデルも徐々に増加していった。 そして1960年代は、欧米の多くのメーカーが数多くの名作キットを生み出す、プラモデルの黄金時代となる。

日本における歴史

日本にプラモデルが渡ってきたのはアメリカでプラモデルが普及を始めた1950年代初めで、主に在日米軍関係者によって持ち込まれたが、日本の木製模型メーカーの注目を得るには至らなかった。1956〜57年になると少数ではあるが外国製のプラモデルを輸入して販売する店も現れ、玩具メーカーのマルサン商店や模型メーカーの日本模型などがプラモデル国産化への模索を開始した。国産初のプラモデルとなったのは、1958年(昭和33年)末にマルサン商店から発売された潜水艦ノーチラス号等4点のキットである。
※ただしこの解釈には異論もある。詳細はマルサン商店#最初の国産プラモデルを参照のこと。

1950年代後期から1960年代は、戦記映画の人気や雑誌・出版物での第二次世界大戦戦記特集に後押しされた軍艦や飛行機などの実物の縮尺模型が主だったが、1960年代後半の今井科学(後のイマイ)による「サンダーバード」シリーズの大ヒットによりキャラクターモデルという分野が確立した。

その後のスーパーカーブーム、ブルートレイン・エル特急ブームでもプラモデルはブームの一端を担った。

1980年代前半のガンプラ(ガンダムのプラモデル)ブームでプラモデルはブームの主役の座を得た。ガンプラの大ヒットを受けて起きたリアルロボットアニメブームでは、プラモデルは主力商品に位置付けられて積極的な製品開発が行われたが、ガンプラブームを再現するには至らなかった。1980年代後半のミニ四駆ブー ムでプラモデルは再び脚光を浴びたが、その後は新しい分野でのプラモデルブームは起きていない。ガンプラは安定した売り上げを記録し続けるものの近年は漸 減傾向にあり、飛行機やAFVなどスケールモデルは大幅な衰退傾向にある。経済産業省の工業統計表によると「プラスチックモデルキット」全体の出荷額は、1998年の199億円に対して2007年は113億円と大幅に減少している[6]。プラモデル市場の衰退については、急激な勢いで進む少子化と、縮小する市場のパイをめぐってのテレビゲーム等の他の玩具との競争が要因としてあげられており、高品質低価格化が進む食玩等の塗装済み完成品模型の存在がプラモデル市場を圧迫しているとの指摘もある。2006年頃からプラモデル市場の縮小の影響や原油価格高騰の為、プラモデルや塗料などが値上げされる傾向にある。

近年、雑誌では通常のプラモデルを「インジェクションキット」と呼んで完成品やガレージキットと区別することもある。

静岡とプラモデル

静岡県はプラモデルやラジコンを代表に玩具産業が盛んで、タミヤやバンダイなど大手玩具・模型メーカーが静岡市を中心に本社や工場をおいている。特にプラモデルに関しては全国売上シェア約90%である。

静岡市には徳川家ゆかりの静岡浅間神社があり、時の将軍の指示により寛永年間と文化年間の二度にわたり大造営を行った。その際に全国から様々な職人達が駿府(現在の静岡市付近)へ集められたが、造営が長期に渡ったため造営終了後も職人達の多くがそのまま駿府に定住し、その木工技術を活用して家具やひな人形、仏壇、蒔絵などの生産を始めた。

その木工技法は代々受け継がれ、1932年(昭和7年)に今でも静岡市内に本社を置くアオシマの創業者である青島次郎が、伝統技法を利用して木製の動力付き模型飛行機を製造販売したことを契機に、県内に多くの木製模型メーカーが誕生した。その後、第二次世界大戦中は、原料不足から他県の木工産業が生産不能に陥るなか、静岡県は国から『重要木工県』という指定を受けていたことで、主に学校教材用として木製模型の生産も続けられた。

戦後1950年(昭和25年)以降欧米のプラモデルが輸入され始めても静岡の模型メーカーの反応は鈍かったが、国産プラモデルが発売されプラモデルの人気が上昇すると、静岡の各メーカーも1960年以降プラモデルの生産に順次参入し、木製模型からプラモデルへの転換が急速に進んだ。その後社会現象にもなったガンプラブーム、ミニ四駆ブームいずれも、静岡の企業からの発信(生産出荷)であり、現在の「静岡=プラモデル」の構図が成り立つこととなった。

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